相対的貧困というのを初めて知った

あるNPOの説明会に行ったときに

初めて「相対的貧困」という言葉を知りました。

衣食住の確保が困難な状態の「絶対的貧困」にたいして、

衣食住はたりているが、みんなが一般的に享受しているものができない状態が

相対的貧困」というらしいです。

たとえば修学旅行などの行事に参加できない、とかスマホを持つことができないとか。

 

全人口を半分にしたときの手取りの中央値の額の、

そのまた半分の額で、相対的貧困家庭は生活をしなくてはならない状態だそうです。

例えば、ある標準的な3人世帯の月収が34万円くらいだとすると、

相対的貧困家庭は半分の17万円で暮らさないとならないことになります。

意外なことに都内の渋谷でさえ、相対的貧困家庭が存在すると聞きました。

 

戦後の日本のように、

みんな押しなべて「絶対的貧困」状態なら問題はない(ありますが、)のだけれど、

みんなが当たり前のように享受できているものができない人達がいると、

そこにいろんな比較が出てしまいます。

親の所得の差が、与えられる教育の差になってしまう事が

問題視されていたりしますよね。

教育の差と言っても、学校の教育というよりは

放課後の習い事や塾にかける金額に大差が出ているのだそうです。

 

貧困家庭の子供は

自分だけが塾に行けなかったり

習い事ができないことに不満の思いがあっても

家の苦しい事情も分かって文句を言わないで我慢している子も多いそうです。

「なぜ自分だけが」

という理不尽な思いがそのうちに

「どうせ自分なんか」

に変わってしまう時に、自己肯定感も失われてしまう、

そこが一番問題ではないか、と説明会では言っていました。

 

どれだけ現代は「お金」というものが人間を左右するものなのか、

相対的な中での自分というものが評価の軸になっているのかということを思い知らされます。

 

でもお金も実はただの紙切れで、みんなの合意があって価値があることになっている。

だから実のところ虚構。

「自分」の価値や自己肯定感も

周りと比べた時の自分の状態で決まるのであれば、

環境は常に移り変わってしまうものだから

それに振り回されるのは残念過ぎます。

移り変わるものはこれまた虚構なのだから。

 

この虚構の中で振り回されている状態の心では問題解決するのは難しいです。

まず心をこれらに影響されない場所へ

次元上昇させることが大事だな、と思いました。

 

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