『青天を衝け』を毎週楽しみにみているんですが、
このまえは、悲しかった。
栄一の養子・平九郎が壮絶な死を遂げて、さらし首になってしまったのです。
官軍と戦っていたのが、自分もたまに河原に遊びに行ったことのある飯能、
一人になって逃げこんだというのが、私が高校生の時に登ったことのある顔振峠、
さらし首にされたのが、仕事で行ったことのある越生、
というのは全然知らなかった。。。
自分の知っている場所で歴史的事件が起きていたのを知ると
何とも言えない気持ちになります。
↑顔振峠
ドラマの中では平九郎は、官軍に執拗に追い回されて、
大勢の敵に囲まれて、これまでか、と最後は自分で切腹して果てました。
このシーンが強烈で、生死について色々かんがえてしまいました。
本当に侍はすごい。平九郎は農家の出だけど、
精神は侍の中の侍のようでした。
何者になって生きるのか死ぬのか、
アイデンティティがとても確立していたんだな、と思います。
Nohさんが人間は生命体じゃなくて精神体なんだ、というけれど、
自分の志を貫いて生きていた革命の志士たちは
本当に精神体で生きていたのだと思いました。
自分だったら、平九郎と同じように追い詰められて
死と隣り合わせのような状況の中で
最後まで志を持って生きていけるかな、、、いや、自信ない。
感覚も錯覚とわかっていても
痛い、怖い思いをして死ぬなんて嫌だな。。
今の時代から考えたら、刀で切腹するなんて
本当によほどの勇気がないと恐ろしくてできないことですね。
自分の意志なんてコロコロ変えて、命乞いしてしまうかもしれない。
そう思うと昔の人は本当に命を懸けて国を変えよう、とか守ろうと思っていたんだな。
さらし首にされる、というのも今の時代から考えたらありえないです。
文明のある国の人間がすることじゃないと思ってしまう。
と、そこで思い出したのがNohさんの話してくれたことです。
人間は秩序をつくるために
恐怖を利用してきたということです。
これもその一つになるのかもしれないと思いました。
↑戦いの舞台になった能仁寺境内
幕末、みんな日本を良くしたいという気持ちは同じなのに、
考え方が違うために敵同士になって
殺し合わないとならなかったのはとても悲しいです。
でも今も同じように
世界の色々なところで同じような争いが終わらないですね。(>_<)
栄一たちが新しい日本をつくっていく裏で、
平九郎や他にも無数の人たちが
争いの中で命を落としていたんだろうな、と思います。
そういう人たちの涙や思いも引き継いで、
それまでとは全く違う「明治」が始まったのだな。。
そして前の時代の人たちの上に
今の私たちの時代があるんだな、と思って
なんだかわけもなく泣きたくなりました。
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